内田裕也弔辞全文
ジョー山中君、デヴィッド・ボウイがローリングストーンマガジンで、今世界で最も興味のあるシンガーは誰かという質問に、彼はこう言いました。
「日本のロックシンガー、ジョー山中」
僕はそれを読んだときにとても興奮して、一緒に苦労したカナダやニューヨーク、ロサンゼルス、いろんな苦しい思いがふっとんでしまいました。
64才という、神様もちょっとひどいじゃないかという若さで、まだこれから、やることはいっぱいあったと思うんです。
そして、癌にさえならなければ、今頃、HiroやBillyや俺たちと一緒に、東北大震災の現地にいて、君の歌声は、他のどんなタレントが行ってやっているボランティアよりも、皆さんの心に響いただろうと確信しています。
牧師さん、素晴らしい彼のエピソード、そして素晴らしいスピーチありがとうございます。
僕は常に、ロックンロールはインターナショナル、世界を、国境を超えるものじゃなければいけないという、エルビスやチャックベリーに感化されたことから、強く感じました。
僕も下手くそですけど一生懸命英語を勉強し、これからは英語ができないバンドやアクターは世の中に通じない、そういうポリシーでやって参りました。
ヒット曲は「人間の証明」と思いますが、あの世界に誇れるフラワートラヴェリンバンド「SATORI」、僕は忘れることができません。
そしてまた、ロックンローラーの場合には、牧師さんがおっしゃったように葉山の施設で育ったジョー山中君をはじめ、ミッキー・カーチス、ミッキー・吉野。そして自称イタリア出身の安岡力也。そして、鮎川誠。北朝鮮出身の白竜。そして、ボクシングのカシアス内藤。そして、ブラジルからいらしたラモス。そしてHIROや大勢の国境を超えた仲間たちが、ロックンローラーとして存在しています。
俺たちのなかにはどこで生まれたとか、どこで育ったとか、何人だとか、そういう国境はほんとうになかったと思います。悪い奴は悪い、いい奴はいい、僕は誰に対しても、そういう状況で歌ってきたつもりです。
僕は今日は、みなさんにぜひ、この功績をお知らせしたいと思います。
彼は、1990年代からNGO団体と一緒に世界中の子供たちに、お米や衣類、そしていろんな援助物資を届けに行きました。その数、全22ヶ国。
カンボジア、ロシア、ヨルダン、イラク、中国、ミャンマー、パキスタン、インドネシア、シリア、イスラエル、ベトナム、北朝鮮、フィリピン、ブラジル、アルゼンチン、韓国、ロシア、国後島、モンゴル、ジャマイカ、キューバ、ベラルーシ、ウクライナ、そして、1994年9月9日に、わたくしも一緒にアフガニスタンの地を訪れました。タリバンが出現する前のアフガニスタンは、本当に悲惨で、もう言葉では言えないと思います。
彼はそこで「To The New World」、「新しい世界へ」、子供たちの前で歌いました。アカペラですけども。子供たちも国境を超えて手拍子で答えてくれました。
決して忘れることのない、そのシーンで、僕は、この男と会ってよかったと、心から痛感いたしました。
帰りは、お酒も飲めなかったので、また危険もありましたので、イスラムの服をみなさん全員で着て行動していましたが、成田にパキスタンエアラインで着きまして、そのまま六本木にその衣装で行って二人で乾杯したことを懐かしいと思います。
言葉にしても、なんと言っていいかわかりませんが、僕は本当に、19歳から彼と出会って、そして、フラワートラヴェリンバンドを結成し、最初の頃は、レッド・ツェッペリンの「Whole Lotta Love(胸いっぱいの愛を)」しか歌わせなかった。なるべく高音の良さを出してやろうと思って、着るものも毎回僕の指定でやってました。なんかグループサウンズにいるような感じだったと思いますけども、結果的には、その後のジョーのロック人生に役立ったと思っております。
また、私生活も、ひかり、ZERO、マイ、ルイ、ルカと5人の子供たちに恵まれて、僕は本当に彼はそういう意味では幸せだったと思います。
奥さん、これから子供たち大変だと思いますけれども、どうぞ、がんばってください。
そして、光は長男として、ZEROも次男として、そして、マイもひとりの女性として、そしてルイとルカもしっかりと生きて、ジョーの意思をついでくれることを心から祈っています。
ジョー、本当に長い間お疲れされまでした。
僕は君のことは決して忘れない。
そして、もっともっと君を大切にしてやれたらよかったと悔やんでいます。
安らかに休んでください。
ジョー山中、お疲れ様でした。 |